日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第7回

受賞者紹介
「家族」を見守る 生涯現役の93歳医師
医療法人健生会 理事長
橋上 好郎
(長野県)
酒巻俊介撮影
患者へのあたたかなまなざしを忘れない

車1台がようやく通れる山間の細道が、集落と集落をつなぐ。「昔は舗装なんてされてなくて道はがたがただった。深夜に往診に向かう途中、オートバイが石の上に乗り上げちゃって、大変だった」

発端は、乳腺炎になった村内の若い女性からのSOSだった。往診して患部を切除し、自宅に帰って休んでいたら、午前2時ごろ、「痛くなってきた」と連絡が入った。寝間着を着替えオートバイで再び往診に向かう途中、がけから20メートルほど転落したのである。落ちてくるオートバイから何とか身をかわし大きなけがはなかったが、まさに危機一髪。一歩間違えば死んでいたかもしれない。村に来て間もないころのそんな思い出話を、楽しそうに語る。

「この仕事が好きなんだね。好きなことをやってお金をもらえる。おまけにありがとうと言われる。世の中には、必要であっても誰かから憎まれる仕事もある中で、人を助ける仕事に就けてよかった」

生まれは大阪。毎年、阪神タイガースの応援に行く生粋の「虎党」だ。だが、先の大戦で大阪の家が焼け、戦場に出るのであれば軍医として行こうと岩手医学専門学校に進んだ。在学中に終戦となり、昭和25年に卒業した後は、岩手医科大付属病院と静岡県内の2カ所の診療所勤務を経て、31年に長野県阿智村に開院した。

気心の知れた患者には軽口をたたくことも

それ以来、医療過疎の地域で医療を一手に担ってきた。24時間、土日もなく、呼ばれれば往診に行った。一晩に往診が3~4件入ったこともある。お産から開腹手術、時には検死まで、診療科の枠を飛び越えて何でも診た。現在は3人以上の医師で行うのが当たり前の外科手術も、1人でこなした。

村内の6つの小中高校では、学校医を39年間務め、村内の6つの企業の産業医にもなった。「この世に生まれて最初に見たのは先生の顔だ」と語る患者もいまや、うれしそうに孫を連れてくる。

村の活性化にも尽力

村での経験はすべてが大切な思い出だ

「大阪には18年おったきり。62年間、ここで一家四代を診とるで、こっちの方がふるさとです」

村が「ふるさと」と思えるようになるまでには苦労もあった。日本一の星空と、美肌の湯として知られる昼神温泉で有名な阿智村。これを目当てに訪れる観光客も多いが、昔は産業も少なく貧しい村だった。診療費や薬代が払えない患者もおり、村から支払われる報酬が滞ったことも。生活に困り、家財道具を売ってしのいだ。

「貧乏暮らしで、家内と子どもには苦労をかけた。まだ小さかった子どものミルクを買うお金もなくて、かわいそうなことをした」。妻と長男に先立たれたいま、当時のことを思い出すと不憫で涙が出る。

92歳まで通った診療所の前で

だが、「仕事では悲しいことはなかった。患者一人ひとり、みんな思い出がある。村中、知らんもんはおらん。どこの猫が子猫を何匹産んだかも分かるくらいだ」とふるさとと仕事への情熱は衰えない。

村のため、できることは何でもやってきた。地元の少年野球チームにユニフォームを寄付するなど、チームを物心両面から支援。60歳以上のシニアの野球チームを全国から集めて生涯野球大会を村内で開催。昼は野球、夜は温泉と、観光客の少ない時期に多くの人を呼び込んだ。1200本を植樹したハナモモは、春になると一斉にピンクの花をつける。過疎地の医師ができることは医療だけではない。村の活性化にも長年、力を尽くしてきたのだ。

患者の様子を書き留める

村の保健担当だった時から30年来のつきあいだという元村職員の佐々木幸仁さん(69)は「ずっと僻地医療に尽くしてくれたありがたい存在です」と感謝の言葉を口にする。「風邪を引いた」と診察を受けに行ったら、「風邪かどうかは俺が診る」と怒られたエピソードを苦笑いとともに紹介しつつも、「言うべきことは言ってくれる先生。村の人は、そんな先生のことが大好きなんです」と厚い信頼をのぞかせる。

「手本になるよう生きる」

70歳の時開設した施設
患者のリハビリを励ます

仕事をする上で大事にしているモットーがある。「自分が100%正しいと思っちゃいけない。自分本位で仕事をするな。いばるな。自分を犠牲にしてこそ医者だ」というものだ。「病気を治すのが医者の仕事ではない。患者は自分自身の力で治る。それを手助けするのが医者だ。若い医者にもそれを伝えたい」

年齢に限界を感じることなく、介護老人保健施設「アルテンハイム会地(おうち)の郷(さと)」を作ったのは70歳の時。現在もここで、入所者の体調管理やリハビリの支援を行う。高齢者施設なのに、多くの場合、患者は自分より年下だ。それだけに、指導にもつい熱が入ってしまう。

「えらくっても歩かにゃだめだで」「人に頼ったらだめ。やれることは自分でやらにゃ」「好きなもんだけ食っとっちゃだめだ」

口調は厳しいが、歩行器で懸命に歩き熱心にリハビリをする患者に向ける視線はあたたかい。「村の人はみんな家族です。素直で、言うことをきいてくれる」

その“家族”がしみじみと言う。「自分ひとりだと歩けない。どうしても頼っちゃうなぁ。本当にありがたい。先生のおかげだ」

若い人と変わらない早足で、次の患者のもとへ向かう。首にかけた聴診器は長年の相棒だ。白衣のすそが軽やかに揺れる。

「ぼくがよろよろしとったら、患者さんに何も言えない。手本になるように生きとるんです」

93歳になっても白衣を脱がない理由はただひとつ。この先に、家族が待っているから。(道丸摩耶)

橋上 好郎 はしがみ・よしろう
医療法人健生会理事長。大正14年、大阪市生まれ。93歳。岩手医学専門学校(現岩手医科大学)卒業後、佐久間村立診療所(静岡県)などを経て、昭和31年に長野県阿智村で「橋上医院」を開院。阿智村下清内路診療所など村内の4つの診療所院長を長年務め、村民の健康を62年にわたって支え続ける。
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