日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第3回

受賞者紹介
被災地の最前線で戦う
岩田 千尋
(岩手県)
小野淳一撮影
患者との軽妙な掛け合いで、診察室に笑い声が響く
地域医療を支え続けた大ベテランにスタッフらも厚い信頼を寄せる

町を流れる大槌川。山々の木々が赤く染まる晩秋、この川を次々とサケが上っていく。江戸時代初期、大槌城主の大槌孫八郎政貞が江戸へ出荷するためにサケの塩漬けを考案し、新巻きサケ発祥の地として知られる岩手県大槌町。この川のすぐ脇にあった県立大槌病院は東日本大震災の津波が直撃し、現在は解体されている。121床あった地域の医療拠点の面影は、ほとんど残っていない。

そこから川を約1キロ上流にさかのぼると、プレハブの建物が見えてくる。現在の大槌病院だ。決して広いとはいえない待合室は地域住民らであふれかえる。奥の診察室からやさしい声が聞こえてくる。

「お加減はどうだい」「おかげさまです」「いくつになったんだっけ。えっ94歳。たいしたもんだねぇ。お大事に」「先生もお大事に」

こんな軽妙なやりとりが交わされる。

「陸の孤島」と呼ばれた大槌町で38年。千年に1度といわれる未曾有の震災にも負けず、岩田千尋院長は地域医療の現場に立ち続ける。

間一髪で津波から避難

現在の診療所には津波でも流失しなかった表札が掲げられている
以前の病院は解体され、かつての面影は残っていない
被災地では復興工事が進むが、工期を終えるにはまだ長い年月がかかる

気がつけば、ここで40年近くたっていた。

埼玉県秩父市出身、祖父から続く医師の家系だ。兄が岩手医科大で学んだこともあり、自身も同じ大学で医師のスタートラインに立った。産科医だった実家は兄が継ぎ、次男の気軽さがあった。

「気がついたらこれだけの時間がたっていたね」と笑う。

昭和51年に後輩と2人で赴任した。若い医師はほかにいなかった。

ただ、決して医療後進地域ではなかった。日本中が好景気にわいた昭和50年代、人口も多く、さまざまな経験が積めた。当時の病院長の協力もあり、最先端の超音波治療など、高度な医療もできた。隣には、製鉄で栄える釜石市。釜石と連携した医療圏で、医師らの交流も活発だった。住民も、若い自分たちに「これ食べろ」って魚を持ってきてくれた。結婚してすぐに赴任したこともあって、5年もすると子供もでき、町に愛着がわいてきた。

そんな第2の故郷を震災が襲った。平成23年3月11日は人事発表の日だった。午後1時半から始まった伝達式は思ったよりも早く終わった。午後の回診に備えて、院長室で患者のカルテに目を通していたときだった。激しい揺れ、停電し非常用電源に切り替わる。経験したこともない揺れだった。約10分後に大津波警報が出た。入院患者は53人。付近の住民も約30人が病院に逃げ込んできた。

70人の職員全員で3階まで誘導し、重要な書類や医療機器も避難させた。間一髪、津波は2階の天井で止まった。自力で動くことができない入院患者は約30人。

「お加減はどうですか」。岩田医師の穏やかな声で患者の表情もやわらぐ

いくら待てども搬送用のヘリコプターは来ない。

「周りの状況が分からないからみんな『なんで来ないんだろう』となっていた。あれだけの広範囲の災害と思っていなかった」と振り返る。

動けない患者を車いすに乗せ、職員総出で避難所まで搬送した。だが、避難所も人であふれていた。

いち早く医療体制を立て直さなければならなかった。ここで30年以上培ってきた人脈が生きた。つきあいのある薬局の社長が患者を受け入れてくれる介護施設を探してきてくれた。3月下旬には、地域の顔役が「公民館で診療できるように掛け合う」と申し出てくれた。住民らが掃除してくれて、そこが仮設の診療所になり、約1カ月で内科の診療を再開した。その後、約3カ月で、現在の仮設診療所に移った。津波で医院を失い、苦しいはずの地元の開業医たちも、全国から応援に駆けつけた医師団と共に診察にあたった。これまで培ってきた地域のネットワークのなせる業だった。

「長い伝統の中で開業医も勤務医も連携する下地ができていたんでしょうね」と岩田医師。

海のすぐそばにあった公舎は流され、自身は住む所も着る物も失った。当日、妻は盛岡市にいる孫のもとを訪ねていて無事だった。病院の様子が報道されたこともあり、家族は岩田医師の安否を把握できていた。しかし、当の岩田医師だけは妻が何時ごろ帰宅するか聞いていなかったため、所在は分からないまま、連絡が途絶えてしまっていた。安否が分かったのは数日後だったが、不安を抱えながらも自分のことは後回しで奮闘した。

笑顔あふれるスタッフの中心にはいつも岩田医師がいる

近年は医師不足が進み、約10人いた常勤医は3人まで減少していた。病床数を半減しながら、隣接する釜石市と連携し、地域医療を支えてきた。

「自分が若いころのような病院とは違う、機能分化が必要でしょう」と、これからの医療のあり方を考える。

「高齢者が大半を占める大槌病院の大きな役割は、患者らをどう看取っていくのかということになっていく。救急救命は釜石や盛岡などに任せ、ここでは慢性期の患者をおだやかに治療する。大槌病院は開業医と救急の中間として、地域医療の拠点となる」と将来像を語る。

生涯現役を貫きたい

被災地の医療拠点を復興させるまで、岩田医師の歩みは止まらない

新しい大槌病院は平成28年度に開院する計画だ。復興の進み具合や人口減少に拍車がかかる現状を考えると、前途は多難だ。「震災のあと、いろいろな人に出会って、人生が変わるくらい勉強になった。生涯一医師を貫きたい。現場を走り回るつもりだ」。医師不足に対応する現代の地域医療の最前線で生涯現役を誓う。

サケは約4年間、海を回遊し、故郷の川に帰ってくるといわれる。今、大槌川を上るサケの多くは震災の直前に放流されたものだ。サケの孵化(ふか)場は被害を受け、震災直後はほとんど放流できず、その後の放流数も半減していた。これから数年は厳しい状況が続くだろう。それでも故郷を目指すサケは、水の流れに打たれ、どんなに傷ついても力強く上っていく。 (高木克聡)

岩田 千尋 いわた・ちひろ
岩手県立大槌病院院長。昭和22年、埼玉県生まれ。67歳。岩手医科大医学部卒。同大大学院医学研究科修了後、昭和51年から大槌病院に勤務し、平成5年から院長に就任。東日本大震災後の地域医療の復興に尽力している。
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