日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第14回

受賞者紹介
精神障害者の社会復帰・偏見差別解消へ尽力
~まあるいこころで共ににっこり~
高田西城病院 理事長・院長
川室 優
(新潟県)
酒巻俊介撮影
精神科の患者の退院、就労支援など「共生社会」を理念に掲げる

「精神科の入院病棟が、患者にとって居心地のよいユートピアになってはいけない」「一人の人間として生まれたのだから、症状が安定したら地域で暮らせるよう支援したい」。この2つの信念に基づき、「共生社会」という言葉が一般化するはるか前から、精神障害者の退院、就労支援に取り組んできた。偏見差別解消を目指した住民との交流イベ ントなど、診療の枠を超えた試みが評価された。

実家は、豪雪地帯として知られる新潟・高田の地で曾祖父の代から続き、「仁寿の心」を継ぐ医師の家系。大正時代の祖父の代に県下2番目の精神科病院を開設、医師で県議会議長も務めた父・道隆氏の時代に本格的な精神科の医療機関として発展した。道隆氏は昭和30年代に米国を視察後、精神科リハビリテーションに効果があるとして、患者が農作業などを行う農耕・園芸療法を先駆的に導入したことで知られる。

幼少期に父の病院で患者らと接した経験が現在までの歩みにつながる。当時、東京の有名大学に進学したものの心を病み中退、故郷に戻り入院している若者たちがいた。

「私の遊び相手になってくれて、卓球を教わったり、魚釣りに連れていってもらったり。楽しい思い出で、患者を怖いとか変だとか思ったことはありません」

地元の高校を卒業後、東京慈恵会医科大学に進学した。100人の新入生のうち女子は5人。「女子は内科志望が2人、小児科志望が2人で、将来、精神科を志望していたのは私だけでした」と振り返る。ただ「体のことを分からないで精神科に行っても…」との思いもあり、まず内科の勉強をし、卒業後数年してから精神科の教室に転じた。

当時、精神科志望は少なく「女医さんとしては珍しい科の選択だね」とよく言われたと、笑いながら話す。

患者が地域で暮らせる仕組みづくり

豪雪地帯として知られる新潟・高田の地で曾祖父の代から続く医師の家系

医師不足といわれる新潟県の中でも、当時、高田市のある上越地方は特に深刻で、実家の病院も例外ではなかった。それをカバーするため、大学の教室で助手だった30代のころは、金曜の午後4時台に東京・上野から特急に乗り、夜に高田に到着。「そのまま病院へ行き回診、土日も診療して日曜の夕方に東京に戻る生活が何年も続きました」。新幹線のない時代で片道4時間もかかった。

当時、東京・荻窪に住んでいたが、「助手だったので、月曜は朝から西新橋の慈恵に出勤しなければならず、疲れの中、激烈な通勤ラッシュの丸ノ内線に必死の思いで乗り込みました」と振り返る。

そして昭和54年、高田に戻り、父が経営する2つの病院で診療することとなるが、一つの思いが沸き上がってきた。

父は農耕療法で患者を日の当たる屋外にいざなった。「ならば次は、病院を出て地域で暮らせるのでは?」。それにはまず、住まいが必要となる。そこで、退院促進の実現の場として、昭和56年、病院建て替えの際に出た古材を利用し、病院より4㎞程の場所に10の個室を持つ共同住居「つくし荘」を造った。軽度の症状の人たちが入居し、自立的に規則正しい生活をし、地域で暮らしていけるようにするのが目的だった。

グループホームという言葉も概念もなく、当時は、精神疾患の患者はできるだけ社会から隔離するといった風潮が強かった時代。従って、地域からは不安の声も出た。「町内会の人たちと、夕刻から深夜まで何度も話し合い、『何かあったら病院に連絡してください。すぐ駆け付けますから』といって理解してもらった」と振り返る。

その際に強調したのは、入居者が下水路の清掃や草取りといった町内の行事に必ず参加すること。それらの作業が毎回、きちんと行われることを通じて、少しずつ精神障害者が地域に受け入れられていった。

パン作りなど地域住民との交流

座右の銘は「まあるいこころで共ににっこり」

医師として、診療以外にも市の仕事を積極的に引き受けて、その関係が構築されていたこともあり、患者らは退院後、市営アパートに入居することもできた。そして、「つくし荘」開設から10年を過ぎたころ、次の段階を目指すように。「社会で自立して生活するには働かねばならないが、そのトレーニングの場が必要だ」と。平成4年、パンを焼いて販売する「つくし工房」(パン工房)を開設する。

その際、メンバーには、「あなたたちはここでパン作りを学ぶのではなく、企業などで働くときのために、責任を持って仕事に取り組むことを学ぶのです」と、趣旨を誤解しないよう繰り返し伝えたという。

工房では一般向けに、幼稚園児や小学生とその親を対象にした「親子のパン作り教室」も定期的に開催。参加者にアンケートを取ると「怖い人はいませんでした。楽しかった」との回答で、偏見差別解消に役立った。

偏見差別解消を目指した住民との交流イベントはパン作り教室にとどまらない。患者や他の福祉事業所で作られた物品の販売や講演会などを行う「越後はさ木フェスタ」は昨年で20回を数え、障害者や高齢者と一般市民がともに走る「越後高田はさ木福祉農道マラソン大会」は8回、「つくしんぼ音楽会」は32回を数えた。

また、パン工房の延長上として、父親がかつて農耕・園芸療法を行っていた場所にヒマワリを植え、種から油を搾って製品にし販売するプロジェクトも行っているが、満開の時期に地域住民にヒマワリ畑を開放する「~一本のひまわりで一つのこころの輪を結ぼう~越後ひまわり祭」も14回を迎えた。「まあるいこころで共ににっこり」のスローガンで患者と向き合って医療福祉活動を続けている。

5法人で構成されるグループの理事長を務め、スタッフの数は約1000人

精神保健領域以外の地域課題にも取り組む。高齢化への対応として、認知症のグループホームも開設し、現在4ヵ所(54人の認知症者のケア)を運営するなど、活動の幅を広げている。

平成12年から10年間は、女性初となる新潟県医師会の理事を務め、県内の医療環境向上にも取り組んだ。80歳の現在、現役医師として診療のほか、5法人で構成されるグループの理事長も務め、そのスタッフの数は約1000人。「体がいくつあっても足りないくらい」と笑う。

真の共生社会実現のため、歩みを止めることなく50年以上尽力してきた。原動力となったのは「自分の生まれ育った地域を少しでもよくしたい」という思いで、その根底には「障害者にとって暮らしやすい場所は、一般市民にとっても暮らしやすい場所」との信念がある。歩みはまだまだ続く。(山本雅人)

川室 優 かわむろ・ゆう
高田西城病院理事長・院長。昭和20年、新潟県高田市(現・上越市)生まれ。45年、東京慈恵会医科大卒。同大精神神経科医長などを経て、54年に地元に戻り、現・川室記念病院、高田西城病院の院長を歴任。5法人医療福祉グループ「和・道厚生事業団」の理事長も務める。
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