

福島県いわき市で祖父の代から続く「木村医院」を継ぎ、外来診療にとどまらず在宅医療をはじめとする地域包括ケアの推進など、さまざまな活動に尽力してきた。15年前の東日本大震災と福島第1原発事故発生時は、看護師の妻と二人三脚で急患に対応。新型コロナウイルス感染症のパンデミックでは、いわき市医師会長として先頭に立って対応に当たった。令和5年春ごろにALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し闘病を続けているが、今も「地域のためできることを精いっぱいやる」との思いにブレはない。
実家の医院に戻ったのは平成9年。父親の体調悪化がきっかけだった。通常の診察に加え、往診や訪問診療も積極的に行った。これと並行して、昭和56年に祖父がいわき市に開設した特別養護老人ホーム「楽寿荘」の入所者の診療や運営に携わり、父親が行っていた高校の学校医や産業医も続けた。さらに、小学校と幼稚園の学校医も新たに引き受けた。
献身的な姿勢は父の背中から学んだ。「急患で呼び出され、仕事にいく姿が記憶に残る。患者さんに誠実な外科医だった」と振り返る。地域医療を担う医師としての信条は「患者さんを総合的に診る、家族や職場の状況にも配慮する、休日夜間も可能な限り対応する」ことだ。
きょうだいは5人で姉が3人、妹が1人。「医者になると決めたのは中学生の頃だった。医学部に進むきょうだいがいなかったので、自然に『自分がやるしかない』と思うようになった」と打ち明ける。ただ、「父から病院を継ぐように言われたことはなかった」という。
研修医や勤務医時代の経験が地域医療の現場で大いに役立った。大学卒業後、最初に勤めた宮城厚生協会坂総合病院は救急患者の受け入れが多い地域密着型の病院で、「患者さんを幅広く総合的に診る姿勢を学んだ」。国立がんセンター中央病院で学んだ最先端のがん診療は、開業医になった際、がんの早期発見や早期治療につながった。「医師としてやりがいを感じることだった」と話す。

精力的に働く中、平成23年3月に東日本大震災と原発事故が発生した。木村医院は津波に取り巻かれたが、床上浸水には至らなかった。原発事故後は職員に出勤を見合わせるよう指示、子供は新潟県にある妻・啓子さんの実家に避難させた。その上で夫婦で協力し患者に薬の処方箋を出し続け、遠方に避難した人にはFAXで送るなどした。
要介護度の高い利用者が暮らす楽寿荘も海に近かったが津波の浸水を免れ、通常通りの対応が可能だった。少しして仕事に戻った職員も泊まり込みで水や食料の調達などに奮闘、一人の退所者も出すことなく危機を乗り切った。
震災と原発事故の翌年には、いわき市医師会の副会長を打診された。多忙だったが引き受けた。「大打撃を受けた地域に尽くしたかった。後悔したくなかった」。医師会活動は副会長と、後に就任した会長をそれぞれ6年ずつ務めるなど、計22年に及んだ。新型コロナウイルス感染症のパンデミックでは、医療関係者の強い危機感の中、検査や治療、ワクチン接種などに関する医師会の対応を指揮した。
医師会活動で特に力を入れたのが、地域包括ケアの推進。少子高齢化が急速に進む中、住み慣れた土地で自分らしく最期まで過ごすには、医療や介護、生活支援サービスなどが身近な地域にそろい、それぞれの連携が重要になる。医師や看護師が患者の自宅や老人ホームなどに出向いて診療を行う、在宅医療も欠かせない。
より多くの人に地域包括ケアへの理解を深めてもらうため、さまざまな取り組みを行った。独自のアイデアの「在宅医療出前講座」では、公民館などを会場に在宅医療などについて医師が語った。
さまざまな職種との連携を円滑にするため、「在宅医療推進のための多職種研修会」も立ち上げた。これを機に、在宅医療に関係する職種の参加者らが講義やディスカッションを通じて理解を深めるようになった。次々と打ち出す企画のモットーは「やるからには意味のある楽しい活動にする」ことだった。

「地域包括ケアの推進はライフワーク」。そう断言するほど地域に尽くしていた医師を3年前、病が襲った。筋肉を動かし運動をつかさどる神経の障害で、全身の筋肉が萎縮し筋力が低下するALS。根本的な治療法がない難病で患者は国内に約1万人とされる。
ALSを疑ったのは令和5年の8月。「ギターの弦を左手でうまく押さえられなかった」。同年5月の講演で言葉がもつれ、6月には内視鏡操作で左手の指の動きに違和感があったが「症状が軽く病気に気付かなかった」。
今は車いす生活を続けている。昨年3月、食べ物などが誤って肺に入るのを防ぐ喉頭中央部切除術を受けた。手術で声を失ったため、会話はパソコンに入力した文字が手術前に録音した自身の声で再生されるシステムで行っている。パソコン画面のアルファベットを目で追い、注視した場所をセンサーが感知する視線入力だ。
このインタビュー取材も記者の質問に視線入力で応じる形で行われた。
今回の受賞を受け「一緒に活動した医師会やさまざまな職種の皆さん、木村医院と楽寿荘の職員、支えてくれる妻と家族に心からお礼を伝えたい」と全ての関係者への感謝を強調する。
長期療養に入り、診療所は一昨年11月に休院した。しかし、ALSを患った医師の視点で「いのちの授業」や「在宅医療出前講座」、ALSに関する講演を行うなど、精力的な姿勢は健在だ。発信しているのは「ALSは発症から診断まで時間がかかることがある。医療者側も一般の人もALSについてよく知っている必要がある」などの説得力あるメッセージ。
「ずっと社会に役立ちたいと思って生きてきた。無理もしたが悔いはない」と言い切る。そして「ALSに罹患(りかん)してもできることを精いっぱいやりたい。その気持ちに変化はない」と、前を向いている。(芹沢伸生)
