住み慣れた地域で最期まで自分らしく暮らせるよう、医療、介護、看取りまでトータルで住民を支える「地域包括ケア」。地方での取り組みを参考に、豊富な経験と卓越した行動力で、人口も医療環境も全く異なる大都市・名古屋でその構築に尽力した。
名古屋市千種区出身。父親は地元の特定郵便局長で、住まいは局の2階。文章を書くのが好きだったこともあり、高校3年の時には東京の有名私大の文学部に、推薦がほぼ決まっていた。だがそのころ、三河湾に浮かぶ「名古屋から一番近い島」として知られる、日間賀島(ひまかじま)や篠島(しのじま)が無医地区になったことが報道され、「住民が困っているところで医師として貢献したい」と志望を変えた。
「得意の国語の配点が高かった」という理由で秋田大医学部を受け合格。内科を選んだが、当時の秋田大はストレート入局で、第一内科が消化器と神経内科、第二内科が循環器と呼吸器、と臓器別に分けられていた。そのことに疑問を感じ、「特定の臓器や病気だけを診るのではなく、人やその生活背景まで全体を診る医師になりたい」と考えるようになった。
卒業に際しては、医局の世話にならず自分で探し、昭和57年、地域医療の旗手といわれていた、新潟の町立大和病院(現・南魚沼市立ゆきぐに大和病院)に入った。同病院には当時、地域医療で有名な黒岩卓夫院長がおり、医療・保健・福祉を一体化した地域医療の施設を開設するなど、先進的な「大和方式」として全国に発信していた。
当時は、病院で患者を待つのが普通の時代。その中で、「在宅医療で患者さんの生活領域に入って診察し、最期まで看取りをするというのが新鮮で、“こういう医療がやりたかった”と思った」と振り返る。中でも衝撃を受けたのが、院内での内科カンファレンス。診断や治療に関する議論をすると思っていたら、「この家はおばあさんとお嫁さんの仲が悪い」と話が脱線する。だが、いま考えると、「これこそ、人や地域全体を診るということだった」と理解している。
その後約10年の間に、千葉、長野、新潟、長野と、規模や特徴が異なる地域医療に熱心な公立病院を渡り歩き、経験を積む。千葉の国保旭中央病院時代には、隣町の病院の外科医で「在宅ホスピスの先駆者」として知られる山崎章郎医師が主宰する勉強会に参加し、緩和ケアに目覚める。2度目の長野赴任となる諏訪中央病院時代には、当時の鎌田實院長に頼み込み1カ月の休みをもらい、英国にある世界初のホスピスに視察・研修に出かけるなど、がん緩和ケアはライフワークとなった。
平成6年には長野から和歌山へ。地元の要望を受け、半官半民の病院(白浜はまゆう病院)の立ち上げを任されることに。諏訪中央病院に依頼が来たのがきっかけで、初代病院長として「10年間、救急から入院、在宅、健診まですべてやった」。開院当初は3日に1度、1人当直で救急に対応したが、白浜温泉は全国有数の観光地。当時、人口2万人の町に1日平均1万人の観光客が滞在し、「酔っぱらって温泉に飛び込んでおぼれた」など、救急車が一晩に7、8台も来て、「今考えると、よく体がもったと思う」。だが、ここで学んだ病院経営や行政との付き合い方は、現在、さまざまな取り組みを行う上で大きく役に立っているという。
平成16年、郷里の名古屋へ。「両親が体調を崩し、最期は地元で世話をしたかった」といい、医療法人生寿会からの誘いもあり、かわな病院の副院長に就任。そこから、「都市型の地域包括ケアの実現」という現在に続く歩みが始まる。
地域包括ケアに関し、地方では地域唯一の公的病院と地元自治体が一体となって進めるため取り組みがしやすいが、大都市では多数の医療機関と自治体がそれぞれ独立して存在する。亀井医師は豊富な経験から、名古屋のような地域では「独立を保ちながらのネットワークづくりが何より重要」といち早く本質を見抜き、「顔の見える関係をつくることをとにかく大事にした」と強調する。生寿会の看護部長の三浦真弓さんも「亀井先生は、ふだんからチームで物事を進めようという姿勢で、若手やベテランの区別なく、スタッフ全員の意見をよく聞いてくれる」と、他者との関係を大事にする人柄をたたえる。
名古屋のような都市部でも、患者自身が生活する場で療養できるよう、定期的な訪問診療と緊急時の往診など多職種によるサポート体制づくりに奔走。名古屋市や同市医師会とともに、歯科を含む医療機関、薬局、訪問看護ステーション、介護事業所などを端末で結び、診療・調剤・介護情報を共有する医療・介護連携ネットワークシステムの構築に尽力した。
また、かわな病院の敷地内に、老人保健施設やサービス付き高齢者向け住宅を併設するとともに、訪問診療部、訪問看護ステーション、ヘルパーステーションなどからなる「在宅ケアセンター」を設立。現在、800人以上に訪問診療を行い、年間250人を超える看取りを行うなど、地域包括ケアの一翼を担う。
ライフワークであるがん緩和ケアに関しては、認定医や認定看護師を含む多職種の「緩和ケアサポートチーム」により、緩和ケア外来、訪問診療、施設ケア、在宅ケアなどを連携して行う「在宅ホスピスかわな」を組織。常時約40人のがん緩和ケアを行うほか、がん患者やその家族が悩みや疑問、不安を気軽に専門職に相談できるよう、NPO法人「tomoniなごや」を設立し、オンラインや電話で無料相談に応じる。「医療法人の理事長という責任ある立場から解放されたので、社会貢献として続けたい」と話す。
今回の受賞については「40年以上、こつこつと患者さんや住民に寄り添ってきたことが評価され、うれしく思う」と語った。(山本雅人)