瀬戸内海中央に浮かぶ大崎上島(かみじま)。広島県竹島市の南約10キロに位置する約43平方キロの島は、レモンなどの柑橘(かんきつ)類の栽培や造船などの製造業も盛んで、約7400人が生活している。島の南東部にある大崎上島町沖浦にある「ときや内科」を訪ねると、院長の釈舎龍三医師が忙しく走り回っていた。
患者の診察をしたかと思えば、CTスキャンによる検査に向かい、すぐに別室へ移動して内視鏡を使った検査を行う。「看護師や検査技師、事務職員ら10人ほどが働いているけど、医師は1人だけですから」と泰然自若とした様子で話す。昨年4月に診療所を無床化したが、それでも外来と往診は精力的に行い、島民たちの健康を守っている。
「24時間、365日いつでも診察するのが信条でやってきました」
高齢化率48%の島民たちのかかりつけ医として診察を続けてきて「がん患者が多い」ことに気づいた。それだけに早期発見、早期治療は最重要課題だ。CTスキャンや内視鏡、胃カメラなど医療機器は最先端のものをそろえ、島民たちの健康に最大限の留意を払っている。
大崎上島は本州や四国と陸路でつながっておらず、移動手段は船しかない。急患が発生した場合は本州に救急艇の出動を要請するが、台風や濃霧、強風で水上アクセスが途絶えた場合には海上保安庁に要請することもある。
ときや内科は昭和元年、祖父の龍猛(りゅうもう)氏が開設した。父の龍夫氏も医者で「家業を継がないといけない」と感じていたという。平成3年、龍夫氏からの要請を受けて、故郷に帰島。以来、二人三脚で島の医療を支え続けてきた。
当時は大崎上島だけでなく、近隣の大崎下島、豊島のほか、愛媛県の岡村島、大下島からも患者が来院していた。昼夜を問わずに訪れる患者に対して「待たせてはいけない。一刻も早く診察する」ため、寝る前には腕時計と靴下を着用する習慣が身についてしまった。それだけではない。「湯船にもつからなくなりました」と話す。どんなときでも患者が現れた際、あわてずに診療するために学んだ心がけだ。
診察範囲は、川崎医科大学附属川崎病院で勤務していたときよりも幅広くなったが、「これが日本医療の最先端だと思ってやりがいを感じていました」と言葉に力を込める。その気持ちは、約29年が過ぎた現在でも色あせることはない。
近年は、「最期は島で迎えたい」という島民の要望に応じて、在宅医療にも取り組むようになった。木曜午後には、島内の5、6軒を回って往診している。
平成26年からは訪問看護師、ケアマネジャー、福祉スタッフ、ヘルパーとの勉強会や研修会を開催。在宅で最期を看取った遺族らが参加するシンポジウムも開催し、町民らに在宅医療の必要性を訴えた。また、患者の意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ終末期医療を含めた意思決定のプロセスを決める「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」の普及啓発も呼びかけている。
実際に在宅医療でできることは限られているが「できることはする」をモットーに掲げる。投薬で痛みをコントロールして、患者がいかに苦しまないようにケアをしていくが「これもある意味、一つの医療だと思っています」ときっぱりと話す。
今田美雪さん(69)の自宅では、87歳の母が在宅医療を受けている。釈舎医師が往診に訪れると、笑顔で出迎える母の姿に今田さんは「昼夜関係なく診察してもらってとても助かっています。夜中に電話をかけても、すぐに『とにかく連れてきなさい』と言ってくれます。診療所に通わなくていいので、自分たちのペースで治療に専念できます」と話した。
一方、夏の往診は蚊との闘いだ。クーラーを使わない高齢者の自宅もあり、「蚊に刺されると、かゆくて診察に集中できなくなりますから」と虫よけスプレーは必需品だ。
在宅医療に加えて、27年からは認知症サポート医として、認知症患者のサポートや家族支援にも乗り出している。30年4月現在、広島県内の65歳以上の認知症患者は9.6人に1人だが、大崎上島町では6.5人に1人と高い割合となっている。だが、釈舎医師は「それは大崎上島町が昔ながらの風情を残す田舎町だからです」と解説する。
認知症患者は都会では見捨てられ、見逃されがちだ。近所とのつながりが強い田舎町では、異常行動に走る人がいればすぐに近所に知れ渡り、見守るようになる。「福祉施設に入るだけでなく、デイサービスも受けられるようになった。家族にとっては、昔に比べて福祉面が充実し、選択肢も増えています」と解説する。町内で発生した交通事故などの検視を行うほか、学校医や幼稚園医、介護老人保健施設の嘱託医も務め、町の保健事業にも積極的にかかわるなど、離島のかかりつけ医としての存在を高めてきた。
そんな釈舎医師に将来像を聞いてみた。
「理想的なのは健全な世代交代だと考えています」
しかし、一人娘(33)は麻酔科医で、跡を継ぐ意思はないという。現在は釈舎医師が1人で切り盛りしているが、平成30年5月までは父の龍夫氏と2人の医師が診療にあたっていた。それだけに「まずは2人の医師による診療体制を確立することが目標です。無責任な形でやめるわけにはいきませんよ」と話し、後継者探しも進めている。
赤ひげ大賞の受賞については、「特別に変わったことはしていないのに、なぜ選ばれたのか」と戸惑いの表情を見せる。だが、「子供のころからお年寄りになるまで一貫して診療するのが医療の理想の形。医師として死ぬまで診療を続ける責任はあります。さまざまな職種の人たちとチームを組んで、患者を見守る体制ができてきたと思います」と力強く話す情熱は衰えることを知らない。 (格清政典)