鳥取県中部に位置する三朝町。世界屈指の高濃度のラジウム温泉が噴出する三朝温泉があり、旅館が立ち並ぶ。高齢化率も高く、冬に積雪も多いこの地にある診療所で約20年に亘って治療に情熱をそそいできた。
「お正月に変わったことはなかったですか」「血圧を測りますね。深呼吸していてください」。患者に優しく声をかけ、雑談を交えながら診察する。
83歳となった現在でも、三朝町にある湯川医院の診察室で、次々に訪れる外来の患者を診察している。町の医療の要で、交通の便がよくない地域から来院する患者の負担軽減となっている。
患者からの信頼も厚い。診察を受けにきた町内の70代の女性は「やさしく丁寧に教えてくれる。食事のアドバイスまでしてくれるので助かっている」と話す。
倉吉市にある自宅から毎日通勤している。午前7時半ごろに到着し、ストーブを付けて診療に備える。午前は正午過ぎ、午後は3時~6時までが診察時間。午前と午後の診療の間に自ら車を運転して看護師と往診先へ向かうこともある。
多忙な毎日だが、「診療所を開けている時間は長いが、比較的ゆったりと仕事をしている。県立厚生病院で勤務していたころはカルテがずらりと並んで、昼食が午後2時過ぎになることもあった。いまは一人の患者さんにゆっくりと時間をとれます」と笑顔を見せる。
祖父、父ともに開業医で、子供のころから医師が身近だった。
「祖母にとっては私が初孫で、『喜美を医者にするんだ』と言われていた。その言葉に洗脳されたのかもしれません。自分では覚えていませんが、中学の卒業文集に『私は医者になる』と書いていたそうです」。
鳥取大医学部を卒業。京都第二赤十字病院で研修後、鳥取大の医局に入局した。それから1年も経たないうちに叔父が急死し、倉吉市の診療所を受け継ぐことになった。
「経験がないなか院長になるのは不安だったが、地域を支える唯一の医療機関で、私が行くしかなかった。経験がないぶん、患者さんの話をよく聞こうと思っていた」と振り返る。患者の声にしっかりと耳を傾ける姿勢はこの時が原点だ。約4年間にわたって昼夜を問わず、往診や予防衛生活動などを行った。
開業から約4年後に転機が訪れた。県立厚生病院から声がかかったのだ。「経験がないなか、突然院長になったので、このままではいけないと感じていた。もっと経験を積みたいと思っていたので行くことに迷いはなかった」と話す。
厚生病院で働き始めてすぐに当時の院長から言われた「病気を見る医者より病人を診る医者になれ」の言葉が座右の銘になった。この言葉を聞いてこれまでやってきたことが間違いないと実感した。
開業医とは異なる環境で苦労もあった。入って2年ほどたったころ、常勤の内科医が2人に。「いまのように循環器や呼吸器の区別はなく、ただ、内科、外科があるだけの時代。60人の入院患者を2人で診なけらればならず、とても忙しかった」と言う。
当時は女性の医師は珍しく、厚生病院に入った時に女性医師は一人だった。「大学時代も女性は60人クラスで4人だけだった。女性の更衣室がないので、夏場はトイレで着替えていた」と振り返る。
待合室で患者から「今日はオナゴか?」と心ない言葉をかけられることもあった。「そういった言葉も人間形成の糧になる」と言い聞かせ、むしろ女性であることの特性をいかし、患者にきめ細かい愛情を注いだ。
大学卒業後の研修医時代に結婚し、働きながら3児を育てた。
「医局で働いていたころはお腹が大きくなってもまだ務めていた。当時はまだ女性医師をサポートする制度はなかったが、母の実家や近所の人に見てもらったりしていた」
厚生病院に32年間勤務した後、平成11年に現在の湯川医院で再び開業医になった。三朝町で診療所を開いていた夫の死がきっかけだった。
「夫に胃がんが見つかったときには末期状態だった。症状がなかったというけど、エコーや胃カメラを見せてもらってびっくりした。これが分からなかったのかと。先が長くないと分かっていたので診療所を受け継ぐことにした」
湯川医院を始めて21年。診療所の窓口は広く、「旅館の風呂で滑って転んだ」「普段は倉吉の病院に行っているけど、待たされるから」などさまざまな理由で患者が訪れる。
「夫が厚生病院で手術した患者がいまも来ている。女性の方は私が女性ということもあって話しやすいのかもしれません」
自宅での看取りを希望する末期がん患者が増え、在宅医療も行っている。冬には道路の凍結やスリップに注意しながら自身の運転で患者宅に駆け付けている。
「往診に行くと『湯川先生が来てごしなった』とマジックの大きな文字で書いてあった。待っている患者さんがいるからこれまで続けてきた」
32年間の厚生病院勤務時代、一度も病気で休んだことはない。人間ドックなどを扱う総合検診センターの部長を経験し、「健康な人を検診するのに私が不健康でいてはいけない」と意識してきた。自身の健康のため、エアロビクスやラジオ体操を続けている。
町役場やJA共済などの依頼で健康講話の講師も務める。聴講者に高齢者が多いため、語尾をはっきりと話すように心掛けている。患者の目線に立った姿勢は常に温かい。
少子高齢化で地方の医療環境は厳しさを増しているが、「健康に気を配りながらこれからも頑張って仕事を続けたい」。そう力を込めた。(坂田弘幸)