98歳になったいまでも、医師と施設長として二足のわらじを履く。現在は自宅から車で送迎されるが、数年前までは自転車で通勤していた。
背筋はぴんと伸び、受け答えもはっきりしている。かくしゃくとした姿は、間もなく100歳を迎える年齢を感じさせない。
「職員や患者の顔を毎日見ることが楽しみだね」
笑顔を見せながら、施設に入ると、愛車の電動カートにまたがり、ゆっくりと巡回する。
「まだまだ全然歩けるんだよ。それでも、立って回診するのと、カートだと入所者の反応が違う。同じ目線になることで、壁がなくなったんだろう。だから、あえてカートに乗っているんだ」
その言葉通り、入所者との距離は近い。
「先生、こんにちは」「はい、こんにちは。何か体に変わったことはないですか」
何でもないやり取りでも、入所者の表情はみるみる緩む。
「昔はみんな年上だったけれど、いまでは僕の方が上になってしまった。ただ、医師として新しい発見がある。だから本当に毎日が楽しいんだ」
医師を志したのは、母、タネさんの言葉がきっかけだった。
「増蔵、医者になりなさい」
旧制中学に通っていたころだと記憶している。父は腎臓の病で古江氏が6歳のころに亡くなった。その後、雑貨店を営みながら女手一つで2人きょうだいを育てた母の言葉は、心に響いた。
「僕は成績もちょっとは良かったからね。それにしても、私と妹の2人をともに大学まで行かせた母は偉いですよ」
旧制七高を経て、千葉医科大に進んだ経緯について「田舎者だから、東京に憧れていたんだな」とはにかみながら振り返る。
大学時代は先の大戦真っ最中だった。「幸い、(下宿先などに)空襲の被害はなかったが、時代が時代だから、早く一人前になり、軍医として戦争に行くことしか考えていなかった」と語る。このころ、多くの医学生が繰り上げ卒業し、戦地に向かっていた。
昭和20年8月の敗戦で、繰り上げはなくなり、21年3月に卒業した。22年に医師国家試験に合格、千葉医科大の内科で勤務していたが、23年、帰郷を決める。首都圏の食糧事情の悪さなどが、背景にあった。勤務先は、故郷からほどちかい国立療養所霧島病院に決まった。
七高を経て、東京で医師になった古江青年への期待は高かった。当時、近所に医院は数軒程度。交通事情の悪い山間部での、医療ニーズは高かった。
24年に古江医院を開院し、開業医として地域医療に携わりはじめた。
「患者はとにかく多かった。往診に出て、帰ってくると午後10時ぐらい。ペダルがついた自転車にエンジンが付いた程度の簡素なオートバイで、1日20軒ぐらいは回ったと思う。妻のマチ子(故人)も医師だったが、子供たちと一緒にご飯を食べたこともない忙しさだった。それだけはきつかったな」と語る。
往診に加え、近隣の小中学校の学校医として地域医療を必死に支えた。
そんな中で目にした地域住民の抱える苦しみが、夫妻に大きな決断を下させる。
交通事情が悪く、集落をまたいだ人の移動が少なかったこのころ、近親婚は珍しくなく、先天性障害を抱えた患者も多く診察した。中には納戸に押し込められていたケースもあったという。
惨状としか言いようのない光景の数々に、夫妻は心を痛めた。
放っておけない─。
夫婦の思いは一致した。
昭和50年、身体障害者療護施設「霧島青葉園」を開園した。
「家内が作ろうかと言い始め、じゃあ作ろうと。あまり難しく考えなかったね。家内が第一線でやりましたよ」と謙遜する。
青葉園開園以来およそ半世紀、特別養護老人ホームや介護老人保健施設など複数の施設を手掛け、多くの身体障害者や認知症の老人などを受け入れた。
しかし、同業者からは冷ややかな視線を感じていたという。
「いまでこそ、先見の明があったなどと言われるが、始めたころは『身体障害者の支援なんて…』などと思っていたでしょうね」と振り返る。
誰もが社会的弱者に手を差し伸べるような風潮でなかった時代から、私財を投げ打ち、力を注いだパイオニアだ。
福祉施設運営と並行し、医師としての仕事も続けた。一大観光地となった霧島温泉郷の観光客に急患が出れば、昼夜を問わず対応した。献身的な姿に、地元からの信頼は厚い。
また、写真から俳句まで嗜む趣味人としても、高い評価を受ける。
施設内には、県内外の名所を自ら撮影した写真がパネルで並ぶ。また、地域住民を招いた句会も月1回開く。俳句誌『桃蹊(とうけい)』は、昭和53年の創刊から毎月欠かさず発行し、通算500号も間近に迫る。
医師としてのキャリアは70年を超えた。いまでも、あくなき向上心を持つ。
「引退はない。患者と職員の顔を見ることが楽しみだから。生涯現役ですよ」(中村雅和)