日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第8回

受賞者紹介
被災地の患者を支え、地域の復興と医療の再生に力を注ぐ
木沢医院 院長
木澤 健一
(岩手県)
早坂洋祐撮影

本州最東端に位置する岩手県宮古市の中心部から南に車で15分あまり、宮古湾から多くのサケが遡上(そじょう)する津軽石川流域に開業してから足かけ57年になる。患者の7割は子供時分から診ている顔なじみ。「どうしたんだ今日は?」「ちゃんとご飯は食べてっか?」─と気さくに声をかける。

常在戦場の心得

生涯現役を貫く木沢医師を支える病院スタッフ
東日本大震災で1階部分が水没した木沢医院

平成23年3月11日午後2時46分、昼休み後に2人の患者の診療を終えた直後だった。2階建ての医院が東日本大震災の激しく異様に長い揺れに襲われた。「えらい揺れ方だった。これはとんでもないことが起きる」と直感した。院内に残っていた十数人の患者を看護師と職員の車に分乗させて、「お前たちも家に帰りなさい」と一緒に避難させた。

地震からほぼ40分後、車で避難しようと準備をしている矢先に津軽石川を遡上してきた津波が堤防を越えた。医院は見る間に黒い水の塊に取り囲まれた。水深は50センチに達し、2階に避難するしかなかった。「2階で入院用のベッドを積み重ねた上で、妻とこれで駄目なら仕方ないと覚悟を決めた」と当時を振り返る。

浸水は1階天井付近で止まり、九死に一生を得た。1階の診療室と自宅はメチャメチャになったが、自宅2階で寝起きしながら復旧作業に取りかかった。患者の多くは持病もちで毎日の薬が欠かせないからだ。「せめて薬だけでも出してやろう」と、懸命に作業を続け、震災から4日目、2階で診療再開にこぎつけた。

開院時間は午前8時~午後6時。ところが、大災害の緊急事態である。ほぼ毎日が時間外診療、午後9時まで患者を診る日もあったという。これが20日間も続いた。「津波につかって濡れたカルテを洗濯ばさみで挟んで所狭しと干してあったのをいまも鮮明に覚えています」。こう話すのは震災後の過労から40度近い高熱を発し、2階で点滴を受けた近所の主婦(63)。

診察中に患者との和やかな会話が聞かれた

旧制長岡中学(現・新潟県立長岡高校)時代に学んだ、いつも戦場にいる心構えで事に当たる大切さを説いた長岡藩の藩是“常在戦場”を見事に実践してみせた。「質実剛健の校風で、ずいぶんと鍛えられた。それがいまの自分の原点。医者の基本は相手の心情を思いやること。苦難を乗り越える覚悟がないといけない。震災はそれが間違いでなかったことを確認させてくれた」と言う。

「ここにいどがん(ここにいろ)」

地域住民のほとんどが1度は診察を受けている

人生の道しるべになったのは商才にたけ、東京・銀座で高級呉服店も経営した父親のこんな言葉だった。「俺は自分のために金もうけをした。お前は官僚になるか医者になるか、人のためになることをやれ。学校に行くなら東京ではなく地方の学校へ行け」

旧制中学4年で医者の道を志し、昭和20年に盛岡市の岩手医学専門学校(現・岩手医大)に進んだ。26年から現場の医師となり、32年に専攻生として岩手医大第三内科講座に入局、36年に博士学位を取得した。これを区切りに新潟県の郷里に帰るつもりだった。

ところが、日本一の定置網漁師と評されていた山根漁業部(宮古市赤前)の山根三右衛門社長の「ここにいどがん(ここにいろ)」の一言で現在地に開業することを決意した。かつてこの地にあった宮古市国民健康保険直営診療所長として30年から4年間勤務、患者の一人だった山根社長が開業資金融資の保証人になると申し出てくれたからだ。

半農半漁で医療資源の乏しい地域事情を熟知していた。労を惜しまない診療ぶりは住民の信頼を集めていた。若狹ヒテさん(91)は同年齢のかかりつけ医を「夫の命の恩人」と呼ぶ。妊娠中に、原因不明の熱病を発症し暴れる夫に何度も突き飛ばされた。

50年以上にわたり地域の医療を支えてきた

同年齢のかかりつけ医は診療所に若狹さんの夫を入院させ、宮古市中心部にある県立病院に自ら足を運んで研究。南方戦線に従軍していた当時に感染、潜伏していたマラリアが熱病の原因であることを突き止め、3年がかりで完治させた。

その一方で、「診断で解けない疑問が残ったら躊躇なく上級病院に送る」を実践してきた。かつて医院の隣に住んでいた中嶋敏孝さん(73)が言う。「おふくろが問診の際にトイレで下血があったと答えたら、県立病院に行った方がいいと手配してくれ、直腸がんが見つかり、摘出手術を受けることができました」

80歳を超えても電話1本で気軽に往診、地元小中学校の学校医はいまも現役で、地域住民は1度は診察を受けている。「地域にとってかけがえのない先生なんです」。地元の町内会である本町協力会の若狹斌会長(81)は大多数の住民の声をこう代弁した。

交通事故で肋骨を8本を折る重傷

患者への思いやりと苦難を乗り越える覚悟で、地域の復興と医療の再生に力を注ぐ

凝り性でもある。趣味で始めたニシキゴイで全日本愛鱗会の副会長や全国大会の審査委員長などを歴任、ニシキゴイの目利きの第一人者でもある。85歳ごろまで続けたゴルフは「医者はシングルになると仕事がおろそかになる」とハンデを12から13に抑えていた。

意志の強さも格別だ。両切りの缶入りピースを好む大の愛煙家だったが、健康のため40歳でタバコをキッパリやめた。平成14年から10年間は酒席の機会が多い宮古医師会長を務めた。ところが、定期的に禁酒する習慣があり、期間中はいくら勧められても一滴も酒を口にしなかったと言う。

昨年10月27日、不運に襲われた。会議に向かうため道路を横断中に前方不注意の車にはねられ、肋骨を左5本、右3本の計8本骨折する重傷を負い、40日間の入院を余儀なくされた。懸命のリハビリで診療再開にこぎつけ、生涯現役の決意を新たにした。

うれしい出来事も。医師の道を選んだ3人の息子のうち岩手医大に勤務する二男の哲也さん(50)が「2番目の俺がやるよ」と後継者に名乗りを上げてくれたからだ。すでに長男は宮古市中心部、三男は山田町にそれぞれ開業、事故の後遺症と闘う日々の中で何よりの朗報に満面の笑みがこぼれた。(石田征広)

木澤 健一 きざわ・けんいち
木沢医院院長。昭和3年、新潟県見附市生まれ。91歳。岩手医学専門学校卒。昭和38年に木沢医院を開業、長年にわたり地域医療を担い、東日本大震災では自らも被災しながら速やかに診療を再開。被災住民の大きな心の支えとなった。
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