日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第6回

受賞者紹介
豪雪地帯で患者に向き合う90歳医師
藤巻医院 理事
藤巻 幹夫
(新潟県)
春名中撮影
患者から絶大な信頼を寄せられている
真剣な表情でカルテにペンを走らせる

鮮やかな色彩や模様から「泳ぐ宝石」とも称賛されるニシキゴイの生産地としても知られる新潟県小千谷市。市街地から約15キロほど離れ、冬には3メートルを超える雪に覆われる同市真人町の信濃川沿いに藤巻医院は建つ。かつては住宅も兼ねていたという医院は、18世紀前半に建築されたとされ、趣のあるかやぶき屋根が特徴だ。

「薬はいつものを出しておきますからね」

藤巻幹夫医師がすらすらとカルテにペンを走らせながら、柔らかな笑顔で患者に語りかける。

90歳となった現在でも、ほぼ毎日、午前中は外来の患者を診察している。患者は生まれた当時から見続けてきた人ばかり。「先生は何歳になりましたか」。高血圧や糖尿病などの慢性疾患を抱える患者も多いが、診察室は常に和やかな雰囲気に包まれている。

昭和40年代から診てもらっているという地元の70代の男性は、「本当に気さくな先生。何を相談してもかしこまったことを言わず答えてくれる。大病院に行くよりも頼りになる先生で、ずっと元気でいてほしい」と絶大な信頼を寄せる。

外来の診察を終えると、休憩をはさみ往診の準備をする。「じゃあ行こうか」。午後2時過ぎ、看護師を引き連れ、さっそうと車に乗り込み、往診先へ向かう。訪問先に到着し、玄関へ向かう足取りは軽快だ。

「よし大丈夫だ」。笑顔で語りかけると患者の表情も和らぐ

往診先は20年以上診察している70歳以上の高齢者がほとんど。「足は痛くないかい」「何時に食事したの」などと柔和な表情でゆっくりと語りかけると、つらそうだった患者の顔に自然と笑みが浮かぶ。

101歳の患者には「顔色良くなってるよ。脈拍もいいし、今日は天気もいい。ごはんを食べて一日でも長生きしてください」と元気づけ、「もう生きるのが嫌になるよ」と弱音を吐く80代の患者に対しては「あんまり早く逝くなや。あなたより私の方が早くいなくなるかもしれないのに」と冗談も交え、笑いを誘う。

真人地区は小千谷市内で特に高齢化、過疎化が進んでいる地域の一つでもある。医院まで足を運ぶことが難しい高齢者も多く、藤巻医師は現在でも現役の医師として週3回は往診に出向く。「今は車で往診に行けるから楽ですよ」と、笑顔を見せる。

中越地震で奔走

患者は小さいころから診てきた高齢者が多い
18世紀後半に建てられたとされる藤巻医院

新潟県長岡市の出身。先の大戦の混乱のさなか、開業医の父、敏太郎さんの背中を追いかけ、医師を目指すことを決めた。産婦人科医として6年ほど勤務した後、地元に戻り、敏太郎さんが院長を務めていた藤巻医院で診療を開始した。

県医師会の代議員を8年、同市北魚沼郡医師会の役員を22年と長年務め、地域医療の発展に大きく貢献してきた。後進の育成にも積極的で、多くの医師からも頼りにされている。

昭和34年に藤巻医院で医師として勤務を始めた当初、往診の担当だった。当時は道路状況も悪く、除雪されていない未舗装の道路を7、8時間かけて歩き、往診先に出向くこともあったという。

冬は大きなリュックにカンジキを結びつけ、ライトを備え付けたスキー用帽子をかぶり、長靴をはいての往診だった。

外来の患者は敏太郎さんに任せ、雪深い山地をこの姿で一日かけて歩き回り、15件ほどの家庭を毎日訪問した。終えるのは翌朝の5時ごろになることもあった。休む暇もなく、すぐに12、13キロ離れた隣接地区に往診に出向いていた。「まるでむじなのようにさまよっていましたよ」

90歳になった今でも週3回の往診を続ける

90年にわたる長い人生の中で、強烈に脳裏に焼き付いているのが、平成16年10月に発生した新潟県中越地震だ。

68人が死亡、約4800人が重軽傷を負い、震度7を記録した小千谷市も大きな被害を受けた。地震発生の瞬間、玄関でくつを磨いていた。「爆弾が落ちたと思った。本棚は倒れ、ガラスの破片が散乱していた」と、当時の様子を振り返る。

大地震で被害も甚大と知るやいなや、「できる限りのことはしてあげなくてはならない」と、すぐに避難所に臨時診療室を開設。自身も体調を崩していたが、損壊した医院の建物の中から応急処置を行う薬剤を持ち出し、支援の医療チームが到着するまで夜通し、診察を続けた。

避難所まで移動できない患者のもとには、自らハンドルを握って往診へ向かった。「山奥の集落をひたすら回り、行ったことがない家がないくらいでした」

いつも明るい笑顔で

できる限り医師を続ける覚悟だ

患者を診察する際に心がけているのは、とにかく笑顔で接すること。「明るい世の中で生活することが一番大事。明るい世の中を作るには自分で明るくならなくては。面白くない顔をするのが一番悪い。どんな状況でも嫌な顔はしないことです」。明るい笑顔でそう語る。医師として一番喜びを感じるのは、出産の瞬間だ。「私はもともと産婦人科医なので、子供が生まれて、元気な顔を見るのが一番うれしい」と、顔をほころばせる。

「赤ちゃんのころから診察していた人が、おじいさん、おばあさんになった今でも来てくれているのは、少し不思議だね」と語る。藤巻医師に診察してもらわなければ気が済まないという患者も多く、いつも「先生の顔を見るだけで安心して元気になる」「先生がいなくなると寂しい」と声を掛けられているという。長年にわたって地域住民から深い信頼を寄せられ、医療とは関係のない、家族の相談を受けることも多い。

元気の秘訣は、大好きなお酒を飲むことと、一緒に暮らす孫たちと遊ぶことで、「孫とはたまに相撲をとることもありますよ」という。

「いつまで生きられるか分からないですが、他にやることもないですし、続けられる限りは医者をずっと続けていきたい」。まっすぐに前を見つめ、そう力を込めた。(松崎翼)

藤巻 幹夫 ふじまき・みきお
新潟県小千谷市の藤巻医院理事。昭和2年、新潟県長岡市生まれ。昭和医学専門学校(現昭和大)を卒業後、東京鉄道病院(現JR東京総合病院)の産婦人科医として勤務した後、父、敏太郎さんが院長を務めていた藤巻医院で診療を始めた。市の予防接種を40年以上担当するとともに、学校医として子供の健康管理に努めている。
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