

生まれ育ったのは四国のほぼ中央の山間部にある徳島県三好市。当時から、医師が足りないということも耳にしていた。だからこそ、「人の役に立つ仕事」を志した子供の頃から自然と思い描いてきたのは、親身となって患者に寄り添う医師の姿だった。東日本大震災の被災地で12年にわたり地域医療の復興に携わった後、故郷の県立三好病院に勤務するようになって2年余り。医師不足と過疎化・高齢化が進む中で、理想の医師像に向け、歩み続けている。
すべてが順風満帆だったわけではなく、念願の医師になるまでには遠回りも経験した。
東京大に合格したが、医学部医学科には進めず、健康科学を専攻。その後、大学院に進んで国際保健学を専攻したものの、やはり医師への道を諦めきれず、再び受験勉強に取り組んで千葉大医学部に編入学した。患者にじっくりと向き合うことができるのでは、と内科を選び循環器内科へ進んだ。東京大附属病院では1年間、救急部集中治療部に所属した。「患者の全身管理を学ぶことは後々、役に立つといわれたのですが、その通りでした。大学院で学んだことも、決してむだになっていないと今では思えます」と振り返る。

漠然と将来は故郷に戻ることを考えていた中で、大きな転機が訪れたのは平成23年3月11日。当時は東京都府中市の榊原記念病院で循環器内科医として勤務していたが、東日本大震災の津波の映像に目を見張った。「このまま東京で普通の生活をしていて良いのだろうか。医師として、すぐにでも被災地に向かいたいと思いました」。その衝動と正直に向き合いながら、救急医でも災害医でもない内科医の自分にできることは何かを考えた。
災害直後は何よりも救命が優先される。次いで、外傷の治療に当たる外科医。だが、全国から駆け付けた医療チームがいつまでも被災地にとどまるわけではない。彼らが引き揚げ始める時期から、腰を据えて地域医療の復興に取り組むこと―。それこそが循環器内科医としての自分の役割だと考え、岩手医科大の災害支援室に連絡を取った。
先方からは3カ月程度、救援活動に従事できるかどうかを打診された。だが、それでは被災者に寄り添う復興支援としては不十分だと考え、思い切って移り住み、期限を決めずに取り組むことにした。両親には反対されるかもしれないと思い「準備が全部済んでから、事後報告しました。そのときは12年も岩手で暮らすとは予想していませんでしたけれど」と笑顔で振り返る。6月に岩手県宮古市に移り住み、県立宮古病院で勤務を始めた。
着任した宮古病院は震災直後の野戦病院のような状態こそ脱してはいたが、避難生活が長引くにつれて体調を崩す患者が増えていた。もともと宮古地域では医師不足が深刻化。宮古病院では前年、常勤医として採用が決まった女が、免許がないにもかかわらず医師になりすましていたとして医師法違反などの容疑で逮捕される偽医師事件も起きていた。
まずは循環器内科の入院診療を再開することから始め、循環器救急対応、心臓カテーテル検査やペースメーカー植え込みなどを行える体制を整えた。だが退院しても、しばらくすると病状が悪化して再入院を繰り返す心不全患者もいた。そこで病院の多職種スタッフらと連携して「心不全減らし隊」を立ち上げ、地域ぐるみで患者の体調を見守る取り組みを進めた。地域で健康教室も開き、再入院率の低下につなげていった。

30年ぶりに戻った故郷でも宮古と同様、地域に根付き、患者とじっくり向き合う姿勢は変わらない。学校や高齢者施設とも連携しながら健康教室を開き、地域のイベントにも積極的に顔を出すなど病院外での住民との触れ合いを大切にしている。「診察室では、どうしてもよそゆきになってしまうと思うんです。病院を出て、普段着の患者さんの様子を知ることも大切だと思っています」
県立三好病院での勤務のかたわら、毎週水曜には山中の準無医地区に設けられた東祖谷(いや)診療所に車で1時間半近くをかけて通っている。ときには診療所にも通えない患者宅への訪問診療も行う。病院での外来診療とは違い、患者が訴える症状は内科、外科を問わずさまざまだ。診療所に通い始めてまもない頃、「ひざが痛むので関節注射をしてほしい」と患者に求められたことがあった。だが、循環器内科では扱う機会がなかったため1週間待ってもらい、三好病院の整形外科医に教わってから施術した。
「患者さんには本当に申し訳ないことをしました。医療過疎地域では、先端医療ばかりが必要なわけではないんですよね。専門分野だけでなく、患者さんの全身を診ることの大切さを肝に銘じています」
宮古病院時代の忘れられない言葉がある。担当した患者の看取りには、たとえ非番のときであっても立ち会うことを信条としていた。ある患者は、病室に駆け付けてほどなく息を引き取った。「きっと先生がいらっしゃるのを待っていたんですね。先生に診ていただいて、本当によかった」。付き添いの家族から、こう声をかけられた。医師として最後の最後まで患者と家族に寄り添いたいという思いを、より一層強くした。
赤ひげ大賞の受賞には戸惑いもあった。「私よりもずっと長く地域のために取り組んできた方々がいらっしゃる。地域のかかりつけ医として、私はまだ道半ばです」と、はにかんだ。(福富正大)
