日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第11回

受賞者紹介
誰一人取り残さない医療を信念に
希望ヶ丘病院 理事長
大久保 直義
(鹿児島県)
沢野貴信撮影

さまざまな高齢者施設開設

「地域で誰一人取り残さないことを大切にしてきた」と語る

鹿児島県の中央部、鹿児島湾の奥に面する姶良(あいら)市。隣接する鹿児島市のベッドタウンとして人口が徐々に増加し、現在は約7万8000人。ベッドタウンゆえに地域のつながりが薄くなってきたとも指摘されている。

そんななか「地域で誰一人取り残さない」との信念のもと、療養型の病院を核に特別養護老人ホームなど高齢者に合ったさまざまな施設を開設、保育園など次世代のための施設も作った。今では当たり前に行われている幼・老の交流を昭和50年代に始めるなど、0~100歳のあらゆる世代の住民に対して、健康を守るだけではなく人のつながりを構築できるよう心を砕いてきた。

旧満州(現・中国東北部)生まれで、父親は病院で小児科医を務めていた。「高等学校のころ、医師だった父の跡を継ごうと漠然と思うようになった」と振り返り、父親からは小児科医を勧められたというが、「幼児にミルクを与えたり、おむつを替えたりするのが苦手だったので、小児科の道には進まなかった」と笑う。

戦後、祖父が住んでいた鹿児島市に移り、鹿児島大学医学部に進学した。卒業後に選んだのは、心が体に及ぼす影響や病を診る心療内科を有する同大の第一内科だった。恩師である教授から「身体を診るだけでなく、精神的、社会的な面からも患者を診ないといけない」との教えを受け、そのことが地域社会に目を向けて医療と福祉を一体として取り組むという後の人生を決めることになった。

大学院では、患者に催眠術をかけてストレスを与えるとどのような影響があるかについて研究。「職場でストレスのある人に職場の話、嫁姑の不和のある人に家庭の話をすると実際に脈が飛ぶのを見て、社会的な面がいかに健康に影響を及ぼすかを実感した」という。

「保育園をつくってほしい」と要望され

患者・入所者の話をじっくり聞く

大学院修了後、同教室で5年間勤めた後、昭和45年に姶良市で「希望ヶ丘病院」を開業した。「22床の小さな病院としてスタートした」と述懐する。この地にゆかりはなく、「両親が鹿児島市に住み、妻の実家が霧島市だったので、その中間点で行き来しやすい」との理由だったという。

開業後、往診なども行ううちに、今後は高齢者は医療だけでなく介護面での援助も必須になると考えるようになり、医療・福祉を包括した長期療養を主体とする療養型の病院にシフトしていく。

開業から7年後、姶良市から「保育園が足りないので、地域社会のために作ってほしい」と要望され、社会福祉法人を設立。病院に隣接する場所に「希望ヶ丘保育園」を開き、妻の蕗子(ふきこ)さんが園長に就いた。

病院に隣接する保育園で、園児と交流

さらに、要望にこたえる形で、特別養護老人ホーム「横川緑風園」(霧島市)、リハビリや介護に重点を置く老健施設「ろうけん姶良」、認知症の高齢者が共同生活をするグループホーム「ぽっぽえん」「重富の里」、住宅型有料老人ホーム「きぼうのおか」などを次々と開設していく。

さまざまな高齢者施設を開設した理由を「一つのタイプの施設では、国の定めた細かな入所の基準により、こぼれ落ちる人が必ず出てくる」と指摘、「さまざまなタイプの施設を用意する必要があった」と話す。蕗子さんは横川緑風園の施設長を務め、介護系施設全般のスタッフ教育に奔走した。

すべては「地域の人のために」

古民具(5珠のそろばん)を使い回想法を行う

大久保医師の「誰一人取り残さない」ための取り組みは高齢者に対してだけではない。希望ヶ丘病院には県内でも数少ない小児発達外来を設け、保育園では病児保育も行い、保護者の支えになっている。また、これらの施設の職員数も330人を超え、地域の雇用創出にも貢献する。

さらには趣味の古民具集めを生かした取り組みも行う。平成24年には集めた古民具や昆虫標本を展示する「重富民俗資料館」を自費でオープン。地域学習の場として地元の小学生が社会科の授業で訪れる。

さらには古民具をグループの高齢者施設に持ち込み、昔の経験を語り合いながら認知機能の改善などを目指す「回想法」に活用している。「昔の道具を見ると若い日を思い出して元気になるし、簡単にできるのがいい」と説明する。記者が訪問した際も、昔の5つ玉のそろばん(下の珠の数が現在の4つとは違い、5つのもの)をみんなで手に取って昔話に花が咲いていた。

「ろうけん姶良」の通所リハビリを週4回利用しているという85歳の女性は「毎回、必ず回ってきて『ちゃんとごはんを食べていますか』など、その人に合った声をかけてくれる優しい先生です」と話す。

施設のスタッフと
希望ヶ丘病院の玄関で

そんな大久保医師について、ろうけん姶良の野﨑光雄看護師長は「おおらかで患者さんにも職員にも慕われている」と話す。野﨑氏によると、以前、高齢患者の診察の際、痛みの症状を訴える患者に対し、大久保医師は黙々と紙に向かって何かを描いていたという。しばらくすると、その患者が笑顔になっている似顔絵を本人に見せ、そのあとでゆっくりと患者と話し始めた。「患者さんは心が温まり痛みも少し和らいだのか、安心しきった様子で診察を受けていました。真の医療を見た思いでした」

現在89歳。院長職などは後進に譲ったものの、現在も理事長として毎日朝礼に出席する。70代までは毎晩、当直業務を引き受けていたという。医師になって61年。「小さな病院から少しずつ土地を買って広げてきたが、思い描いていたことはほぼできたかな」。理事長職も近く、長女が引き継ぐ。

今回の受賞について、「何かの間違いかと思った」としたうえで「妻が3年前から闘病中のため、表彰式に同伴できなかったのが唯一残念。妻の伴走なしに受賞は実現し得なかった」と語った。(山本雅人)

大久保 直義 おおくぼ・なおよし
希望ヶ丘病院理事長。昭和8年、満州(現・中国東北部)生まれ。89歳。40年、鹿児島大学大学院医学研究科修了。同第一内科学教室を経て、45年に希望ヶ丘病院開業。その後、保育園、特別養護老人ホーム、介護老人保健施設、グループホームなどを次々と開設した。
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