日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第10回

受賞者紹介
島の歴史とともに歩み、島民の健康第一に
佐藤医院 院長
佐藤 立行
(熊本県)
山本雅人撮影

結核療養所の内科医に

特養ホームでの回診風景。94歳(取材当時)とは思えぬ足どり

八代海(やつしろかい)に浮かぶ戸馳(とばせ)島で唯一の医療機関として、島民が気軽に訪れる佐藤医院。その玄関に掲示された診療科目には「内科」に加え「麻酔科」とあり、やや不思議な感じを受けるが、それこそ、島の歴史とともにある佐藤医師の歩みを表している。

実家は島の対岸にある宇土半島の郡浦(こうのうら)にあった並河(なみかわ)医院。もともとは漢方医の家系だったが、明治時代に私立熊本医学校ができると祖父は西洋医学の道へ進んだ。同窓には日本の細菌学の礎を築いた北里柴三郎がいたという。父は軍医として従軍後に並河医院を継ぎ、長兄も軍医を務めるなど身近な職業だった。

だが時代背景もあり、自身は「海軍士官にあこがれ、海軍兵学校に行きたかった」と言う。父親はいい顔をしなかったが、いざ受験すると「海軍兵学校は落ちてしまい、熊本医科大学附属医学専門部(現・熊本大学医学部)を受けると合格。その結果に父は喜んだ」。今度は海軍軍医になることを望んだが、在学中に終戦となった。

佐藤医院の玄関で。診療科目の「麻酔科」に注目

卒業後、研修医の期間中に戸馳村長の長女、圭子さんと結婚、妻の実家である佐藤家の婿養子となる。ちなみに、村長だった佐藤鶴亀人(つきと)氏は、三角(みすみ)町長として、昭和48年にそれまで渡し舟で行き来していた戸馳島と対岸を結ぶ戸馳大橋を建設した人物で、橋のたもとには銅像が建立されている。

研修を終えた昭和28年、内科医として結核療養所である国立戸馳療養所に赴任、島で患者の治療に奔走することになる。橋はまだなかった。当時、結核は国民病といわれ、亡くなる人も多かったことから感染を恐れ「島民の中には、療養所の前を通る際に呼吸を止める人もいた」と振り返る。

特養ホームの入所者を診療

「多いときには200人以上の患者がいた」という療養所では患者に対し、肺の一部を切除する手術なども行われており、内科医である佐藤医師は麻酔を担当した。「全身麻酔について勉強するため、当時の所長が福岡の療養所まで研修に行かせてくれたので専門知識を習得することができた」。また、厚生省(当時)の麻酔科標榜医の資格も取得した。現在の佐藤医院の診療科目に「麻酔科」があるのはこのためだ。

島民のため開業を決断

佐藤医院のスタッフと

所長は研究も奨励した。当時、結核の患者にとって日光に当たることがよいとされていたが、長時間当たると皮膚への刺激が強すぎる。そこで「データを取りながら、最適な紫外線量はどの程度かという研究をさせてもらった。所長には今でも感謝している」。

療養所では結核の入所者だけでなく島民への一般診療も行っており、島で唯一の医療機関という側面もあった。

そんな中、ストレプトマイシンなどの特効薬が開発され、「薬で治せる病気」となった結核の患者は徐々に減少。全国の療養所は統廃合されることとなり、30年近く勤める戸馳療養所も、いつその対象になってもおかしくない状況となった。佐藤医師は「地域の核となる病院を残したい」との思いから立ち上がる。「所長とともに当時の厚生省や町役場を回って陳情した」と言う。

57年、戸馳療養所は国立療養所三角病院(現・済生会みすみ病院)として、対岸の三角町の高台に移転することとなり副院長に。ただ、それは療養所は残ったものの、島からは医療機関がなくなることを意味していた。

戸馳島の中心近くにある佐藤医院

佐藤医師は島民のことを考え続けた。「身近なかかりつけ医で診察し、必要に応じて大きな病院を紹介する。そんな医院が島にあるだけで住民は安心できるのではないか」。よい医療を提供するために役割を分担して協力し合う「病診連携」を自ら率先して行おうと3年後、副院長の職を辞して、島での開業を決断した。59歳のことだった。

平成12年に介護保険制度が始まるまでは近隣に高齢者施設もあまりなかったことから、島では寝たきりの患者らの訪問診療をすることも多かった。家族に献身的に世話をしてもらえる人、そうでない人など、さまざまだった。中でも印象に残っているのは実子がおらず、養子と暮らしていた高齢の女性。「あまり面倒を見てもらっていなかったようで、訪問診療の際、私に『100の蔵より子が宝』と言った。最晩年は施設に入所できて幸せに過ごせたのでよかったが...」と述懐する。

人望ゆえ医療以外も

警察の嘱託医としても長年貢献

現在は島での診療のほか、対岸にある特別養護老人ホーム「豊洋園」の嘱託医として週2回通い、入所者の診療も行っている。スタッフの女性は「佐藤医院だけでなく、三角病院の副院長の時代に患者だったという入所者も多く、先生が来ると安心して合掌する人もいる」とし、「認知症の人でも先生のことは分かるようだ」と話す。

記者が取材した日は佐藤医師が同園を訪問する日で、園のスタッフらに新型コロナウイルスの3回目のワクチン接種を実施。30人以上に対して、94歳とは思えない手際のよさで次々と接種を行っていた。

特養ホームの職員に新型コロナワクチン接種を行う

住民のために自らを犠牲にし、人望のある佐藤医師を役場も放っておくはずがない。国家公務員(副院長)を辞して兼業禁止が解けると同時に三角町の教育委員に任命された。16年間にわたって務め(うち7年間は委員長)、その間、少子化に伴う小・中学校の統廃合という難しい問題に取り組む。「自分の学校がなくなることをよく思う人はいないが、スクールバスの手当てなど、できるだけのことをして基本計画をまとめた」。平成16年には文部科学大臣表彰を受けた。

ほかにも、熊本県警の嘱託医を長年務め、地域で不審死の事案が発生した際は昼夜問わず対応、県警からも感謝状が贈られている。

医師になって約70年。今回の受賞について「自分のような者がいただいていいのか」と自問しながらも、「身体の続く限り、島民のために尽くしたい」と語った。(山本雅人)

佐藤 立行 さとう・たちゆき
佐藤医院院長。昭和2年、熊本県郡浦村(現・宇城市)生まれ。95歳(2022年5月12日時点)。熊本医科大学附属医学専門部(現・熊本大学医学部)卒業後、国立戸馳療養所に内科の医師として勤務、後に副所長。同療養所が統合・移転し国立療養所三角病院となると副院長に。昭和60年、戸馳島で佐藤医院を開業。
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