日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第2回

受賞者紹介
「介護と医療」を一つに
白石 吉彦
(島根)
宮川浩和撮影
島唯一の病院

鳥取・境港からフェリーで2時間40分、日本海に浮かぶ人口3千人の島、西ノ島。島唯一の病院は、周辺の2島を合わせて6500人の健康を担う。

「この島に救急車のたらい回しはないです。たらい回しするところがありませんから」

現れた白石吉彦院長は、半袖の白衣姿で楽しそうに笑う。離島の医療を一手に担う隠岐島前病院の白石院長が、縁もゆかりもないこの島に来て16年になる。

赴任から4年目、若干34歳で院長に抜擢(ばってき)されたときは戸惑った。断り切れず10年以上が経過した今も、離島の医療を引っ張ってきたという意識はない。「ひとりよがりの医療にならないことが大事だからね」

患者がいて、スタッフがいて、支えてくれる島の住民がいる。モットーは「医者が偉くない病院」。時には看護師から叱られることもある。偉ぶらず、楽しそうに働く白石院長に、専門は何かを聞くとその目が輝いた。

「総合医です」

治すだけではダメ

外部で研修を受けた職員による勉強会を開き、学んだ内容を共有する

高校までは、徳島県で育った。小学生の頃は大工に、中学生の頃は羊飼いにあこがれた。高校時代に出合った夢は「旅人」。

「旅人になったらお金を使う一方だよな。手に職をつけないと」

手に職をつけてくれるばかりか、卒業後は就職先まで面倒を見てくれる自治医大の存在を知り、落ちるつもりの入試に合格。医学生をしながら、アルバイト、二輪車、ダンスと充実した学生生活を送った。

卒業とともに、ダンス部の後輩だった裕子さんと結婚。故郷の徳島で働きながら“別居婚”を送った後、裕子さんの故郷である島根県に。「1年間、頑張れよ」と送り出された先が西ノ島だった。

赴任してすぐ、肺炎の80代の男性患者を診た。人工呼吸器が必要で、本土の病院に搬送されてもおかしくない状態だったが、懸命な治療で回復。しかし、退院から1カ月後、男性は施設で寝たきりの生活になっていた。

「あんなに頑張って治したのに、自分の仕事はなんだったのだろう」

治して帰したはずの患者が幸せに暮らせていない。病気を治すだけではダメなんだ。介護と医療がひとつになった地域包括ケアの実現に向け、白石医師の挑戦が始まった。退院が近い患者を家に帰していいか。在宅介護で困ることはないか。

現場にいるヘルパーと病院職員が共に患者のケアを考える「サービス調整会議」を立ち上げた。会議は月2回、16年間続いている。

若い医師たちも、ここで鍛えられ育っていく

これまでは1年ごとに替わっていた医師が根付いたことで、院内の雰囲気も変わった。薬剤師や栄養士、理学療法士など他職種で情報を共有するのが当たり前になった。誰かが外部で研修を受ければ、すぐ勉強会を開いて学んだ内容を皆に伝えてもらう。

「これは明日から病院で実践できるね」

積極的な意見交換は時に、夜まで続く。

エコーから手術まで

スタッフが集まり情報を共有する朝のミーティング

午前8時。病棟には1時間以上かけて44床を回診する白石院長の姿があった。東京の病院から研修に来ていた看護師が「東京ではありえない長さです」とつぶやく。「先生は医者としてどうありたいかに正直なだけ。ここにいると私も看護師でありたいという原点がぶれないんですよ」と松浦幸子看護師長が言葉を添える。年間100人もの医学生や看護学生が研修させてほしいとやってくるのも、「僻地(へきち)医療」のイメージを覆す現場に学ぶことが多いからだろう。

回診後は、膀胱(ぼうこう)エコー、ブロック注射、皮膚がんの切除手術を次々こなす。

患者とじっくり対話する

できることは何でもやるのが離島の医療。赴任2年目の遠藤健史医師は「どこにでもエコーを当て、どこにでも針を刺す。最初は驚きました」と苦笑する。まずは診る。その上で詳しい検査や治療が必要となれば、本土の病院を紹介するのが基本だ。

「総合医ってかっこいいと思ってほしい。医者の半分が総合医になったら、日本の医療は変わるだろうね」。どんな患者も診てきた自身の経験は、発生から2日後に現地入りした東日本大震災の被災地でも生きた。

予約の時間に来ない患者には電話を入れ、時には往診にも押しかける。施設へ往診に向かう道すがら、住民が「先生、元気?」と声をかけてきた。診察だけでなく、地域のまつりに参加するなど、積極的に島民と交流してきた証だ。

楽しいから続く

「海のあるこの島の暮らしが楽しい」という

決して仕事一辺倒ではない。「全力で頑張り続けて続くわけがない。楽しいから続いているんだよ」と白石院長。しかし、僻地医療が楽しいなら、なぜ全国で医療過疎が進むのか。

離島に赴任した医師の“三大障害”は、パートナー、子供の教育、親の介護だと白石院長は分析する。白石家の場合、妻の裕子さんは近隣の町立浦郷診療所長として診療をこなしながら4人の子供を育てるスーパー女医。院長が「生まれ変わっても(裕子さんを)探して結婚する」とのろけるのも無理はない。

地域には高校が1カ所しかなく、大学はない。子供たちが今後、どんな道を選ぶのか。先のことは分からないが、今のところは「もうちょっとやろう」と思っている。「だって、楽しいことをやりたくてここに来たんだもの」

「ホワイトストーン(白石)」と名付けた船で日本海を旅するなど、島にいるからこその家族の思い出も増えた。それができるのも、医師の「複数制」を取っているからだ。

徳島の山奥の診療所に先輩と勤務していたとき、「ひとりで何もかもやるのは無理。教え合い、助け合いながら続けることが大切なんだ」と知った。島前病院と近隣の診療所の医師を交代で診察に当て、島外の学会や研修会にも積極的に出席させる。病院の質を決めるのは看護のレベル。看護力の底上げにも余念はない。

「ぼくはドクターコトーじゃない。“チーム島前病院”の一員です」 (道丸摩耶)

白石 吉彦 しらいし・よしひこ
隠岐広域連合立隠岐島前病院院長。昭和41年、徳島県生まれ。47歳。自治医大卒。徳島大医学部付属病院、国民健康保険相生診療所(徳島県)などの勤務を経て、平成10年から島前町村組合立島前診療所(現・隠岐島前病院)に。13年から院長を務める。
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