日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第9回

受賞者紹介
被災地に根差し住民の健康を担う
藤井小児科内科クリニック 院長
藤井 敏司
(岩手県)
松本健吾撮影

愛称はパンダ先生

「ニーズがある限りやり続けたい」と話す

三陸沿岸の岩手県大槌町でただ1人の小児科医は昭和58年の開業時から「パンダ先生」の愛称で親しまれてきた。「頼んだわけじゃないんです。看板屋が遊び心でパンダのイラストを看板に入れたんです。当時は体重が75~76㌔あった。身長163㌢ぐらいで、完全なメタボです。体形がマッチングして定着してしまったんですね」と笑う。

大槌町は作家の井上ひさしとのゆかりが深い。小説「吉里吉里人」と同名の吉里吉里の地名があるほか、テレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルの蓬莱島(ほうらいじま)もある。平成23年の東日本大震災の津波と火災で市街地が壊滅した。犠牲者は1200人以上、首長が津波の犠牲になった唯一の自治体として知られ、県立病院を含む町内14の医療機関もすべて被災した。

3階建てで九死に一生

町内唯一の小児科医。「パンダ先生」の愛称で親しまれている

病院兼自宅が頑丈な鉄骨3階建てだったおかげでパンダ先生は九死に一生を得た。リアス式海岸が続く大槌町内に平坦な土地は多くない。狭い土地に駐車場を確保するには地上部分の1階を駐車場にするしかなく、2階を病院、3階を自宅にする構造になった。

震災時は自宅の寝室で診療再開前の休息をとっていた。激しい揺れにより廊下の本棚から落下した書物でドアが開かない。何とかこじ開けて自宅の玄関に出たのが午後3時すぎ。倒壊家屋はなかったが、海側に白い煙が見えた気がした。火事だと思って、屋上に上って確認すると、押し寄せる津波の横一線の水煙だった。

クリニックのスタッフたちと

院外への避難は不可能だった。2階にいる職員に叫んだ。「津波だ」「すぐに上がれ」「急げ」。職員3人と屋上に避難した。「水煙が見えたとき、屋上を超えると思った。窓がない屋上のボイラー室に入った。静かになるのを待って、さらにボイラー室の屋根に上った」と当時を振り返る。

津波は3階の自宅の床まで達していた。後に病院兼自宅が流失を免れたのは3階建てにするため耐震性の高い頑丈な鉄骨を用い、1階が駐車場で壁がなく抵抗が少なかったのが大きな理由だったと知る。「3階建てにして大正解だったんですね」とパンダ先生。

避難所で24時間診療

診察の前にカルテを確認する

しかし、身動きがとれなかった。山側で発生した火災の炎とガスボンベの爆発音が迫る中で半ば死を覚悟しながら、自宅の仏壇にあったロウソクで看護師らと暖をとりながら眠れぬ夜を明かした。翌朝、病院兼自宅周辺の火災が下火になり、徒歩で山の上の城山公園体育館に避難できた。

待っていたのは被災者の事実上24時間態勢の診療だった。薬も持たずに着の身着のままで避難した被災者が多かった。高血圧症、糖尿病、癲癇(てんかん)、喘息などの持病の悪化や発作の懸念があった。案の定、被災者の1人が癲癇の発作を起こした。薬もなく痙攣(けいれん)を繰返す患者の呼吸状態を管理しながら10人がかりでひたすら抑えつけるしかなかったという。

被災時はウイルス性胃腸炎が流行、避難していた大槌小学校の児童約30人が集団感染した。避難所に詰めていた看護師が集団感染した児童の1人の手を握ってパンパンと叩いて点滴の時に血管を見る仕草をしているのが目に留まった。

「親子だったんです。うちの婦長が気付いて耳打ちしてくれました。点滴が3本しかなくて、お母さんは点滴をしてほしいけど言えないわけですよ。アピールだったんですね。でも、脱水がひどくて意識も少しもうろうとしていたので打った方がよいだろうと、婦長に指示しました。元気になって帰っていきました」

支給される食糧はラップに包まれたおにぎりが1日1個。この厳しい条件下で事実上の24時間態勢の診療が災害派遣医療チーム(DMAT)の到着まで4、5日は続いた。持病の高血圧症が悪化、盛岡市内の病院に入院することになった。手持ちの薬を飲まずに症状が悪化した高血圧症の被災者に提供していたからだ。

「被災時の医療で最も大事なのは命の危険があるかどうかの判断ができるかどうか。それは経験に基づく勘なんです。検査機器も薬も何もない中で、自分の経験をフル動員するしかない。広く浅く全部を診て診断する小児科の長年の経験が役に立った」と振り返る。

復興を願ってショッピングセンターに診療所

パンダのイラストが目を引くクリニックの入り口

パンダ先生は大槌町内の商店の末っ子で次男。大学受験直前まで一級建築士になって地元に戻って建築事務所を開くのが夢だった。ところが「医学部をやらないか」という高校の同級生の言葉で方針転換。父親に電話で「これから医学部に変えるけどいい」と駄目元で聞いた。答えは予想外の「いいよ」。

「地元に貢献したい」と岩手医大の大学院では地元になかった小児科を専攻した。開業後は長く地元小中学校の学校医を務め、令和元年度の学校保健及び学校安全表彰の文部科学大臣表彰を受けている。盛岡市内で療養中に聞こえてくるのは診療再開を求める地元の強い要望だった。

クリニックが入るショッピングセンター

その年の5月の連休明けに大槌町内に仮設診療所を開設、インフルエンザが流行していたため隔離室と点滴室を増設、続く手足口病の大流行にも対応、多くの子供たちを救った。その年の12月には復旧した地元の大型ショッピングセンター、シーサイドタウンマストに診療所を再建、被災地の医療を支えてきた。

「マストは10歳上の亡き兄(藤井征司氏)が初代社長を務めました。被災者の中にはマストが再建しないと大槌に戻らないという人がたくさんいた。ここが復興しないと大槌の復興はないだろうと思って、マストの再建に役立てばと入居を決めました」という。

ニーズがある限りやり続ける

老若男女問わず診察に訪れる。その多くが顔見知りだ

大好きな海釣りでリフレッシュしながら診療を続けるパンダ先生。「小児科が一番自分に合っている。実は岩手医大に入るときは親分肌の教授の〝俺のところによこせ〟という強い引きもあって小児科を専攻したけど、結果オーライですね。広く浅く全部を診て診断する小児科は自分の頭の構造とも合う」

コロナ禍のこの1年で10キロ以上もダイエットした。自らの免疫力を高めるため毎日1時間のウォーキングに取り組んできたからだ。「僕はニーズがある限りやり続けたい」。パンダ先生の決意を引き締まった表情が代弁している。(石田征広)

藤井 敏司 ふじい・としじ
藤井小児科内科クリニック院長。岩手県大槌町生まれ、70歳。杏林大学医学部卒。岩手医科大の大学院で小児科を専攻、岩手県立釜石病院小児科を経て、昭和58年4月、故郷の大槌町で開業した。町内でただ1人の小児科医として、町立小中学校で長年にわたり学校医を務め、令和元年度の学校保健及び学校安全表彰の文部科学大臣表彰を受けている。平成8年から20年間にわたり釜石医師会副議長も務めた。
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