日本医師会 赤ひげ大賞

小冊子

第3回

受賞者紹介
離島の医師として25年
古川 誠二
(鹿児島県)
甘利慈撮影
毎朝、来院者の検査にのぞむ
往診や訪問診療に出かけた家では、丁寧な応対を心がける

鹿児島空港から、飛行機に乗って約1時間20分。鹿児島県最南端にある与論島は、人口約5400人の隆起サンゴ礁の有人離島だ。気候は年中暖かい亜熱帯。自治体名でいうと、鹿児島県与論町になる。島内を車で回ると、どこまでも続く鮮やかな緑色のサトウキビ畑と、紺碧(こんぺき)の海が印象的な、美しい島だ。だが、ひとたび台風が直撃すると飛行機も船も近寄れずに孤立し、生活用品やガソリンは届かなくなる。島民は、厳しい自然環境の中で生きている。

ここで「パナウル診療所」の所長を務め、あらゆる疾患に対応できる「プライマリ・ケア(初期診療)医」として、25年以上、地域医療に寄り添い続けてきたのが、古川誠二医師だ。

「与論島の古語で、『パナ』は『花』、『ウル』は『サンゴ』をさします」。診療所の建物は自ら図面を描き、「木のぬくもりが好き」なことから、温かみを感じさせる木造にした。建坪は100坪(約330平方メートル)に達する。待合室にいくつもある本棚には、たくさんの本を並べ、患者が自由に借りて帰れるようになっている。まるで、ぶらりと立ち寄ってくつろげるサロンのような趣だ。

風邪から骨折の患者まで

与論島民の実直さが好きという
医師不足の地域で働きたいという思いは、若いころから

プライマリ・ケア医とは、離島や僻地(へきち)などで、大勢の住民に対して、内科や外科、耳鼻科、皮膚科など、あらゆる診療を行う、総合的な能力や知識を持つ医師のこと。古川医師は毎日、午前と夕方に約50人を診療し、真夜中に電話でたたき起こされることもある。

診療所に持ち込まれる病気やケガは、「風邪をひいた」「目が痛い」「骨折した」などさまざま。

「『釣り針が刺さった』『サトウキビ刈りで手を切った』なんて、与論島ならではでしょう」。今年の夏は映画の撮影に来ていた関係者が、強い日差しでやけどを負って皮膚が水ぶくれになり、治療に来たという。

診療の合間には訪問診療や往診も精力的にこなし、島に多い〝ご長寿〟の住民の話に耳を傾ける。定期的に自宅を訪れている竹恵美子さん(105)は「おかげさまで、先生は心の支えにもなっています」。古川医師は「とにかく、何でも丁寧に話を聞くことを心がけていますよ」と笑顔を見せる。

さらに重視しているのが治療や救急搬送の優先順位を決めるトリアージだ。大きな病気にかかった患者の場合、島外の大病院へヘリで搬送する必要があるが、判断が遅れれば、「取り返しがつかなくなる」。

町田末吉さん(76)も今年6月、脊髄を取り囲む硬膜の外側に膿がたまる病気「硬膜外膿瘍(のうよう)」にかかり、自宅で倒れた。

病状の重大さにすぐ気付いた古川医師は、沖縄県の病院に町田さんをドクターヘリで運ぶよう指示。町田さんは、幸い手遅れにならず手厚い治療を受けることができ一命を取り留めた。

「せっかく先生に命をいただいたんです。何とか恩返ししたいのですが...」。こう語る町田さんのように、古川医師へ最大限の感謝の言葉を口にする島民は後を絶たない。

出身は徳島県。医師を志したのは、9歳のとき2つ下の妹をジフテリアで亡くし、その後、両親が泣き暮らしていたのを目の当たりにしたことが大きい。人の命を救い、人の悲しみを少しでも和らげる仕事につきたいと思った。

ネットなどを利用した勉強も欠かさない
「パナ」は花、「ウル」はサンゴの意味

「入院していた妹が元気になり、明日退院して帰宅することができる、というまさにその日に、突然亡くなりました。両親の悲嘆ぶりは、とても大きかった。ひな人形を捨てることができるまでに、1年もかかりました」

医師を志すにあたり、「医師不足の地域で働きたい」という思いを抱いた。そして大学を卒業して民間病院に勤め、いろいろな医師の話を聞くうちに、「特に隔離されて常勤の医師がいないような、離島の医療に貢献したいという思いが強くなった」という。

その後、実際に離島で先輩の指導を受けたり、米国家庭医の専門医から学んだりして研鑽を積んだ。指導を受けた中には、漫画「Dr.コトー診療所」のモデルとなった、鹿児島県の下甑島(しもこしきじま)(現薩摩川内市)の瀬戸上健二郎医師がいた。

昭和60年には、徳之島の民間病院院長として離島医療の実践をスタート。63年、医師不足に悩む与論島の求めに応じて与論町立診療所に赴任した。さまざまな事情でこの診療所が閉鎖された後も、「地域住民と寄り添い続けたい」との思いからパナウル診療所を開き、島に残った。

一つの場所に腰すえたい

離島医療にたずさわりながらも、国際的な視野は常に失わない

「本当に地域に溶け込んだ医療を実践するには、ひとつの場所で長期間やらなければなりません」

さらに古川医師は医療以外の活動でも、全ての生活で住民と向き合う。例えば、定期的に公民館の一室で、住民を対象に英会話教室を開催。印刷物を用意し、インターネットの動画サイトで流れている番組を使う。

このほか、ギターバンドを編成して介護施設で演奏したり、診療所でミュージシャンを招いてコンサートを開いたり、体操教室を主宰したり...。事務長を務める息子の哲平さん(28)は「一言でいえば『活動家』。いろいろな本を読んで、アイデアを思いついているようです」。古川医師は「実直でピュアな『島んちゅ』(島人)の笑顔が、モチベーションなんですよ」と笑う。

後進教育にも熱心で、今も鹿児島大医学部の臨床教授として、学生の実習や卒後研修も年50人ほど受け入れている。頼もしく感じているのは、「『Dr・コトー』などの影響もあるのか、今の若者は地域医療への意識が高く、とても真面目に取り組んでくれることです」という。

「今はインターネットなどが発達し、世界中の最先端の情報を手に入れることができる。僕も、実習や研修で受け入れた若い医師たちと一緒に勉強しています」。四方を海に囲まれた与論から、常に世界を見つめている─。そんなスケールの大きさを感じさせる「赤ひげ先生」だ。 (山口暢彦)

古川 誠二 こかわ・せいじ
パナウル診療所所長。昭和24年、徳島県生まれ。65歳。久留米大学医学部卒。徳島大学医学部付属病院、徳之島徳洲会病院、与論町立診療所などをへて、平成3年にパナウル診療所開設。若いころから離島医療を志し、総合的な能力を持つプライマリ・ケア医として、地域住民に寄り添っている。
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